地下足袋山中考 NO12

<奥森吉の変遷B 国指定森吉山鳥獣保護区の誕生と特別保護地区の拡大>

国の天然記念物指定は頓挫したが、クマゲラの発見によって鳥獣保護法に基づく森吉山国設鳥獣保護区が1983(S58)に誕生した。指定区域は、草地開発されたノロ川牧場(500f)を除く、太平湖と小又峡からノロ川流域を含む6,062fが指定を受けた▲ただし、伐採規制の対象になる特別保護地区は、クマゲラ一つがいの生息に欠かせない1,000fの要望がありながら、県自然保護課と秋田営林局との調整の結果、ノロ川地区の330fにとどまった。太平湖地区は主に水鳥の保護区として398fが飛び地として指定を受けた。特別保護地区は要望の三分の一に縮小されたが、当時ブナ林の保護を訴えた自然愛好家にとっては、悲願達成という形で指定を受けた聖域である▲しかし、ブナ林の伐採は終わることはなかった。国指定の鳥獣保護区といえども特別保護地区330fを除く周辺の保護区は自然公園の地種区分に従えば30100%の伐採ができる仕組みになっていたからだ。林道の延長に伴う伐採とブル運材、その後の杉植林によって原生的自然環境は大きく損なわれていった。文化庁の意向は「鳥か人か」の論理と森林法優先の仕組みによって見事に骨抜きにされたのである▲奥森吉の運命をわけたものは何か。それは、戦後の農耕馬の需要衰退とともに、かつてダム開発から守った奥森吉のブナ林と人の営みが薄れていく中で、山麓の天然林施業は戦後復興の就労の場を提供し地場産業を支える原木供給の森となったことだ。高度成長期の地元製材工場は20社余りを数え、林業と関連土木事業の盛況振りに地域の活力は満ちあふれていた。奇しくも1968(S43)10月には森吉山県立自然公園が誕生したが、国有林野を間借りした公園計画では、公園区域の85%が伐採可能という森林法優先制度に太刀打ちできなかったのだ。皮肉なことに1958(S33)に開始した国の拡大造林政策(ブナを皆伐し杉植林地に替える林野政策)とノロ川牧場開発に歯止めをかけたのは人間ではなくクマゲラだった。幻の鳥が一声を発し、学術調査団を再び呼込むまで、長い空白の時を過してしまったのだ▲ノロ川牧場の草地開発が始まった頃、山麓の有用なブナ林は切り尽くされ、自然公園内の源流部や森吉山本体の核心部に伐採が及んでいた。年々、伐採の侵食を受ける国設鳥獣保護区で特別保護地区の拡大を訴えたのが「森吉山の自然を守る会」である。私自身、守る会の事務局長として山麓の天然林保護運動に本腰を入れることになる。先ず公園の施業計画を明らかにし、旧阿仁・米内沢営林署管内の岩井ノ又沢流域、粒様・様ノ沢流域、大印沢、ノロ川流域、森吉山本体を取巻くブナ林の保護を訴え、県自然保護課と秋田営林局に要請要望を繰り返す堂々巡りがはじまった。当初は営林局と一戦を構えたくない県自然保護課と木材供給の使命優先を唱える秋田営林局との押し問答は一向に進展を見なかったが、転機が訪れた▲林野庁は知床の伐採問題や白神山地の青秋林道問題など、かつてない国民の自然保護運動の高まりに応えるため、1989(H1)に森林法を改正し、保護林の拡大に舵を切った。これまで分かりにくかった林地区分を四つの理解しやすい名称に改めた。第一は集落や道路を山地災害から守る国土保全林。第二は生態系の維持や自然環境の保全を第一として人の手を加えない自然維持林。第三は森林のレジャーやレクレーションに供する自然空間利用林。第四を木材生産林とし、全ての森林に水源涵養機能を付加した。森林施業にあったっては県民の意見を聞く制度も確立された▲この流れに県自然保護課も重い腰を上げた。10年ごとに見直される国設鳥獣保護区の更新に向けて、特別保護地区をこれまでの330fから1,173fの3.5倍に拡大する案を県自然保護審議会に諮問し、そして了承された。私たちの5年越しの運動が実った1994(H6)に、クマゲラの繁殖が()最上禄平氏の調査によって13年ぶりに確認されたのだ▲これ以降、わずかに点在する天然秋田杉の伐採や岩井ノ又沢伐採に伴う乱暴なブル運材が問題になったが、公園内の天然林施業は終焉を迎え、現在は戦後に植林された造林杉の伐採に主力が移っている▲今ある小又峡とクマゲラの森は、戦前戦後から高度成長期を挿み一次産業の衰退と自然保護の価値観が揺れ動く時代の節目において、危ういところで守った歴史的自然遺産と言えよう。(2010.7.30